堀・船津の中国旅行記
私達のシルクロード
このページでは古代シルクロードのルートと私達がたどったルートを紹介します
シルクロードに関連した主な遺跡など
A
炳霊寺石窟
B
嘉峪関城
C
陽関
D
玉門関
E
高昌故城
F
交河故城
G
ベゼクリク千仏洞
H
鉄門関
I
スバシ故城
J
キジル千仏洞
K
石頭城
遺跡などの名称をクリックするとその説明をご覧いただけます。
シルクロード沿いの主要な都市 (都市名をクリックするとその都市の説明をご覧いただけます。)
1
西安
6
嘉峪関
11
コルラ
16
ローラン
21
ウルムチ
2
蘭州
7
安西
12
クチャ
17
チャルクリク
22
イーニン
3
武威
8
敦煌
13
アクス
18
ニヤ
23
アルマアタ
4
張液(手偏)
9
ハミ
14
カシュガル
19
ホータン
101
銀川
5
酒泉
10
トルファン
15
タシュクルガン
20
ヤルカンド
102
西寧

シルクロードのルート
シルクロードは、紀元前2世紀から8世紀頃まで、中国とヨーロッパを結ぶ陸上の幹線ルートだった。現代のように重機械や車がある訳ではない。全長7000キロに及ぶとされるシルクロードは、長い年月をかけて、人やラクダが歩き固めたものである。ルートの大半をしめる熱砂の砂漠や万年雪を頂く高い山々、そして草原を駆け巡る遊牧の民など、苦難とロマンの入り混じった壮大な物語である。
シルクロードは一本の道ではなく、気候の激変や戦火によって、度々ルート変更を余儀なくされた。現在明らかになっている代表的なルートを複数の文献から引用してみると、概ね次のようになる(上図参照)。
唐の都長安ー中国側の出発点は諸説あるが、唐の都長安(現在の陝西省西安市)が有力である(図番号1)。この西安を出て西に向かうと、甘粛省蘭州に達する(図番号2)。ここで最初の難関である黄河を渡る事になるが、その場所は蘭州郊外の炳霊寺石窟付近(図番号A)だったとされている。
河西回廊ー北にゴビ砂漠、南に祁連山脈に挟まれた細く長い回廊(河西回廊)を通り抜ける。ここには漢代に、匈奴に対抗する前線基地として築城された河西四郡がある。武威(図番号3)・張液(手偏)(図番号4)・酒泉(図番号5)・敦煌(図番号8)である。
天山南路ー敦煌を出ると、砂漠の中で道が二手に分かれる。北に向かう旅人は玉門関(図番号D)を抜け、ハミ(図番号9)・トルファン(図番号10)・コルラ(図番号11)・クチャ(図番号12)などの西域北道(タクラマカン砂漠の北側)を通ってカシュガルに達する。南に向かう旅人は陽関(図番号C)を通り、ローラン(図番号16)辺りでタクラマカン砂漠の西域南道に入り、ニヤ(図番号18)・ホータン(図番号19)を経由して、カシュガルに達したという。この二つのルートは、天山山脈の南を通る事から天山南路と呼ばれる。天山南路は、カシュガルからパミール高原に入り、4000〜5000mの峠を幾つも越え、タシュクルガンを経て、ギルギットへ向かう。タシュクルガンにある石頭城(図番号K)に立てば、遥かなるシルクロードの旅人の気分に浸れるのは、私建だけではないだろう。
天山北路ー玉門関(図番号D)を出でハミ(図番号9)に着くと、そこからもう一本北へ向かう道がある。ボゴタ連山の北を迂回し、ウルムチ(図番号21)・イーニン(図番号22)を抜け、チュー川を渡って、西北に向かえばカスピ海を通って、イスタンブールに達する。このルートは、天山山脈の北を通る事から天山北路と呼ばれる。
青海の道ー昨年、NHKで「もう一つのシルクロード」として紹介された。このルートは、河西回廊が戦火で通れなくなった一時期、開拓されたとされる。蘭州から黄河に沿って青海省に入り、西寧(図番号102)・青海湖を通り、西蔵高原を抜け、
チャルクリク辺りで、タクラマカン砂漠の西域南道に入ったとされる。
私達のシルクロードー2005年6月と2006年6月の、2年間、合計50日間かけて、上図のコースを周りました。その内容は旅行記として、このホームページに載せてあります。上表の都市名や遺跡名をクリックしてご覧いただけます。ぜひ、ご一読頂ければ幸いです。

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.R.HORI & Y.FUNATSU
公開日: 2002.08.10 更新日2013.03.01