堀・船津の中国旅行記
甘粛省
敦煌

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敦煌は甘粛省の西の端に位置します。年間降雨量わずか39.9mmという砂漠の中のオアシス都市で、昔は沙州と呼ばれていました。紀元前200年頃、当時西方に勢力を伸ばしつつあった漢の武帝が、匈奴の侵入に備え、河西回廊に四つの軍事拠点(武威・張えき・酒泉・敦煌)を設けました。敦煌はその河西四群の一つで西域への軍事上の最前線でした。その為、敦煌周辺には漢代の遺跡が多く残っています。市の人口は15万人、オアシス都市らしく夏の昼間は暑さで人影もまばらで、木陰で休んでいる姿も見かけます。夏の敦煌は22時過ぎまでは明るさが残っていますが、陽が沈む頃になると大勢の人が繰り出して夜中まで賑わいます。その賑わいの中心が沙州市場です。敦煌の幹線道路は、東西に走る陽関路と南北に走る沙州路が市の中心で交わる形になっています。砂州市場は陽関東路にあり、夜店や屋台が並んで賑わいます。街の中にこんな案内表示を見つけました
鳴沙山は、敦煌市の南6キロ一帯に広がる広大な砂漠で、数十メートルの砂の山
が東西40キロ 南北20キロにわたって連なり、文字通り「月の砂漠」の世界が広がっています。昔は神の砂山と言う意味の「神沙山」と呼ばれていましたが、峰々の頂から滑り落ちる砂が楽器を奏でるような音を出すことから「鳴沙山」と呼ばれるようになったと言われています。入口を入ったらラクダにのって、鳴沙山へ登って見ましょう。ラクダは途中までしか登りませんから、最後は徒歩で登る事になります。頂上に立つと敦煌の街まで一望できます。鳴沙山の砂は粒子が細かく、風が描き出す波紋や、鋭角な砂丘の日向と日陰のコントラスト等、まさにすばらしいの一言です。砂の芸術に堪能したら、またラクダの背にゆられて、月牙泉へと向かいます
月牙泉は、鳴沙山北麓の砂山の谷あいにあり、地下から湧き出す水で出来た泉
です。泉の形が三日月の形をしている事から月牙泉と称されています。これまで一度も枯れた事がないそうです。泉の側に楼閣が建っています。楼閣の前には人工的に散水して庭が造られていますから、緑を眺めながら一休みするもの良いでしょう。一息入れたらチョット重労働ですが、頑張って周囲の砂山に登って見ると、そこからの眺めは最高です。地元では端午節(旧暦5月=端午の節句)に鳴沙山に登って月牙泉を見るのが風習となっているほどです。私達は運良く、砂漠の上に浮かぶ月と砂漠に浮かぶ月牙泉を見る事ができました。(注)鳴沙山・月牙泉は昼間は暑くて観光どころではありません。夕方(16:00以降に)行くのが良いでしょう。夜も行くことが出来ますから「月の砂漠」としゃれ込むのも良いです。入場料は80元。(左のビデオボタンから、鳴沙山と月牙泉をビデオ映像でご覧いただけます)

ボタンをクリックするとビデオ映像がご覧頂けます。

莫高窟は、市の南東25キロにある鳴沙山東麓の断崖に造られています。砂漠の道路を走る事1時間弱、前方に突然緑が見えてきます。莫高窟です。窟がある断崖の反対側の小高い砂山に登ってみました。見渡す限り砂と岩だけの世界です。その中に蜃気楼の様に緑が広がり、莫高窟が顔を覗かせていました。窟の全長は1.6キロ、上下5段になっています。窟の造営は366年に始まり、以降歴代の王朝によって造営が続けられました。現在、492の窟、2415体の塑像、45000平方メートルの壁画が発見されています。
莫高窟の歩き方
ー窟の周辺は公園の様に整備されています
。駐車場で車を降りると売店や入場券売り場があります。入場料(120元)を支払ったら、公園の方に歩きます。公園の入口に門が建っています。しばらく歩くと、莫高窟の正面にでます。ここから右に行った所が、窟の入口です。窟を見学する前に、まず持ち物を預けます。カメラなど一切の持ち物を預けなければなりません。入口に専用のガイドが立っていますから、見学を申し出て順番を待ちます。見る窟の場所は、日によって、またガイドによって異なります。1回の見学で、実際に私達が見学出来るのは10窟程度です。全ての窟には鍵が掛っているので勝手に窟内を見ることは出来ません。窟内での写真撮影も出来ませんから、事務所でガイドブック(1部220元)を買うといいでしょう。日本語版もあります。窟の中は、ゆっくり見学できませんが、外壁にも日本なら大騒ぎするような壁画が、至る所に描かれていますから、じっくりと見てみましょう
注意したい事ー旅行案内書などを読むと「窟内は暗いので懐中電灯持参した方が良い」と書いてあります。しかし、ガイドが説明する時は、説明場所を懐中電灯で照らしながら説明しますから、説明中に勝手な場所を懐中電灯で照らすと、他の人の迷惑になりますから注意しましょう。
主な見所ー主なものを次に書いておきます。写真は、ガイドブックからの転用したものです。
第275窟ー交脚弥勒菩薩像ー最も古い窟の一つ
。第248窟ー北魏390年頃ー釈迦の苦修仏像。第428窟ー北周400年頃ーサッタ太子本生図。第420窟ー隋600年頃ー釈迦説法図。第220窟ー初唐600年頃ー帝王図。第130窟ー盛唐700年頃ー窟2番目の大仏像で高さ29m。第45窟ー盛唐700年頃ー初めて三曲を表現した菩薩像。第196窟ー晩唐850年頃ー蓮華座に座る菩薩像。第61窟ー五代950年頃ー敦煌地方の支配者「曹氏家族」供養図


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ヤダン地貌風景区(玉門関雅丹)は、敦煌市から砂漠の道を西へ進み、玉門関遺跡を経由して更に100キロも走った砂漠の中にあります。2千万年かかって風の浸食作用によって形成されました。昼間の気温は40度を越え、地表温度は70度にもなると言います。総面積は、25キロ四方におよび、正に「灼熱荒漠」の世界が果てしなく続くいています。シルクロードの時代、河西回廊から敦煌に入り、タクラマカン砂漠の北を通って西域を目指した旅人達は、必ずこの地を通らねばなりませんでした。旅人達はこの地を悪魔の城「魔鬼城」と呼んだといいます。砂の上に城壁のように突き出した幾く筋ものヤダン(雅丹)は、高さ20m、幅数100mに達するものもあります。私達が乗ったラクダは、日向をさけて、林立するヤダンの日陰をゆっくりと進みます。周りには人影もなく、ただラクダの鈴の音とかすかな風の音だけが聞こえるだけです。写真を撮るため途中でラクダを降り、ラクダ引きの少年に案内されて、最も高いヤダンの上によじ登ってみました。そこからの眺めはどのように表現したら良いか言葉が思い当たりません。写真を見て想像して下さい
玉門関遺跡
は、市内から北西へ90キロ、ゴビ灘の真ただ中にあります。漢の武帝が置いた漢王朝の最西端の関所跡です。当時は、ここから先が西域と言われ、タクラマカン砂漠の北を通って西域を目指す「西域北道=天山南路」の出発点でもありました。当時ホータンで採れる玉(ヒスイ)がもたらされた事から「玉門関」と称されました。現在残っている城壁は、高さが9.7m、南北26.4m、東西24mのほぼ正方形をしています。城壁は黄土を固めて造ったもので壁の厚さは4m程もあり、西側と北側に各一つの門があります。北側の傾斜地の底の部分には、かつて馬車道があり、シルクロードの宿場があったとされています
陽関遺跡
は、市内から西南へ70キロ、ゴビ灘の真ただ中にあります。玉門関遺跡と同様、漢の武帝が置いた漢王朝の最西端の関所跡です。当時は、ここから先が西域と言われ、タクラマカン砂漠の南を通って西域を目指す「西域南道」の出発点でもありました。玉門関の南にあることから陽関と称されました。今は、紅色の砂岩の上に烽火台が残るのみとなっています。烽火台が残る砂岩の頂上に登ると四方に遮るものが無いゴビ灘が一望できます。陽関遺跡の入口(ここで入場料を支払います)を入ると博物館になっています。烽火台に行くには、博物館の裏から、乗合いのカートにのります。
蜃気楼が見えました。
砂漠の中を走っている時、運転手君が「蜃気楼が見えるよ」と教えてくれました。遮るものがまったくない砂漠の地平線全体に、ゆらゆらとゆれるように浮かんでいました
。蜃気楼は、晴れた日の午前中によく見られるそうです。
敦煌故城は、陽関路を西に向かい党河を渡った所にあります。市の西1キロ程の所です。漢代に敦煌郡政府があった所で砂州故城ともよばれます。当時は南北1132m、東西718mの城壁に囲まれていたとされますが、現在はほとんど朽ち果ています。わずかに高さ4m程の土台跡と、その奥に今も使われている住居が当時の面影を残すのみです。次に述べる白馬塔も、当時城内にあったものです。現地には保護柵や案内標識も無く、放置されたままの状態となっています。
白馬塔
は、市の西2キロ程の白馬村にあります。陽関路を西に向かい敦煌故城の角を左折して1キロ程の所にあります。クチャの高宗「鳩摩羅什(クマラジュウ)」が乗っていた白馬を埋葬したという伝説が残っています。白馬塔はただ白い塔があるだけですが、レンタサイクルで行けば、敦煌故城を左折した辺りからは、オアシス村の雰囲気が残っています。畑越しに鳴沙山の砂丘が絵の様に見えたりします
西千仏洞は、敦煌市の南西35kmの党河の断崖にあります
。莫高窟の西にあることから西千仏洞と呼ばれます。北魏390年頃に造り始めたとされますが、現在はほとんどが朽ち果て、僅かに16窟が残るのみです。訪れる観光客が少ないようで、一人のおじさんが、入場券の販売から窟の案内係りまで一人何役もこなしていました。しかしこのおじさんは、ナント日本語が流暢で日本語で案内してくれました。ここの窟も他の窟塗と同様、勝手に見る事はできませんし、限られた窟しか公開していません。入場料は30元、ガイドブックは50元でした。
倣宋古城(敦煌映画城)は、ゴビ灘の中に造られた日中共同制作「敦煌」のセット
で、五代(950年頃)の敦煌城を復元したものです。陽関や玉門関に行く道の途中にありますから、時間があれば寄ってみても良いでしょう。
敦煌楽舞ー敦煌は東西文化の交流点にあった事から独特の民俗楽舞が育ちました。それを再現してショー化したのが敦煌賓館飛天歌舞団です。敦煌楽舞は敦煌賓館の2階で、毎晩8時と9時の2回公演しています
。(入場料80元ー要予約)
敦煌から烏魯木斉へー当初計画では、敦煌からハミ経由でトルファンに向かう予定でしたが、寝台特急(軟臥)切符の入手が出来ず、急遽空路(21:50発、CZ6896便)
で、ウルムチへ向かうことにしました。ウルムチで車をチャーターしてトルファンに向かう事に変更したのです。

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[特記事項]
敦煌駅は市内から遠いので注意;
敦煌駅は、敦煌市内にはなく、130キロほど北にある柳園鎮(村)にあります。駅前からミニバスも運行されていますが、タクシーでぶっ飛ばしても2時間以上かかります。
敦煌の列車事情;
敦煌駅は蘭州市とウルムチ市を結ぶ「蘭新鉄道」の途中駅にあたります。敦煌始発列車もありますが、寝台特急(軟臥)など指定切符の入手が難しいので、日程に余裕を持つ必要があります。
敦煌空港について;
市の中心から13キロと至近距離にあります。路線はウルムチ・蘭州・西安・北京、程度しかありませんが、チケットは列車よりは入手しやすいようです。ホテルのビジネスセンター等で確認すると良いでしょう。
車チャーター事情;
観光地だけあって、車は沢山あります。ホテルで車を頼めば、安全で綺麗な車を手配してくれます。一日チャーターの場合、距離にもよりますが、莫高窟方面で150元、一番遠い玉門関・ヤダン地貌方面で350元といった所です。敦煌からハミや嘉峪関までなら、800元〜1000元(1万5千円)位です。距離にして約500キロです。敦煌の駅まででも130キロありますから、ハミや嘉峪関に向かうなら、砂漠の道を楽しみながら車で向かうのも、良いと思います。
料理の特徴:
主食は麺類で、麺の種類が多いのが特徴。敦煌の料理では羊肉の他に鶏肉・豚肉も使われています。
代表的な料理:
敦煌拉麺(ラーメン)=ゆでた麺が皿にのってきます。一緒に出てくる辛い炒めものを上にのせて食べます。
特産品:
杏(あんず)・陽関の葡萄・鳴山のなつめ


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.R.HORI & Y.FUNATSU
公開日: 2002.08.10 更新日2013.03.01