堀・船津の中国旅行記
新彊ウイグル自治区
ホータン〜
ヤルカンド

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2006年の私達のシルクロード後半の旅は、ウルムチから南彊鉄道で天山山脈を越えコルラに向かう所から始まりました。コルラで車と運転手を調達し、クチャ〜砂漠公路縦断〜ニヤ〜ホータン〜ヤルカンド〜カシュガル〜タシュクルガン〜カシュガル〜アクス〜クチャを経由して、コルラに戻る(左の地図参照)という、タクラマカン砂漠をほぼ半周する10日間4000キロ走破コースです。このページでは「ホータン〜ヤルカンド」について書く事にします。
ニヤを後にした私達は、西域南道をホータン(和田)へ向かいました
。西域南道は「流砂の道」とも言われる通り、道路には砂が舞い、いたる所で竜巻が巻き起こっていました。崑崙の恵みを受けた幾つかのオアシス村を通り抜け、ホータンまでは約300キロの道程でした。
ユーロンカシュガル河(玉尤喀什河)ーホータンに東から入ると、まずこの河を渡る事になります
白玉が見つかる事から白玉河とも呼ばれています。ホータンには崑崙山脈から2本の河が流れ込んでおり、西を流れるのがカラカシュガル河です。この2本の河は、ホータン北部の砂漠の中で合流しホータン河となり砂漠の中に消えていきます。しかし、雪解けシーズンになると、タクラマカン砂漠を北上し、北を流れるタリム河に達します。この河を渡るとホータンです。
ホータンは、タリム盆地の西南、タクラマカン砂漠と崑崙山脈の間にあり、西域では最も古い仏教王国「カンデン国」があった所です。玄奘三蔵も訪れたとされています。しかし10世紀頃からイスラム教を信仰するカラハン朝がこの地を支配するようになり、数多くの仏教遺跡が砂漠の中に埋もれて行きました。現在では人口18万人(2002年末現在)のうち、ウイグル族が大半を占めるイスラム色の強い街となっています。市内は、北京西路の団結広場
を中心に繁華街が広がっており、ホテルやレストランが集中しています。広い舗装道路・立ち並ぶビル・買い物客であふれる地下街・若者で賑わうファーストフード店など、中国の一般的地方都市と変わりがありません。観光などで開発が進む市内では古民居などもほとんど残っていません。NHKのシルクロードで見た「砂漠の中のオアシス村」のイメージが、何処にも残っていないのは残念です。北京西路を東に行くと、ウイグル族の人々で賑わうバザール地区があります。モスクもあって、こちらの方が、まだシルクロードの雰囲気が残っている感じがあります。
ホータン絨毯廠ーホータンには、白玉・絹・絨毯の三つの特産品(ホータン三宝)があります。この内、ホータン羊の毛を使った絨毯は、2千年以上の歴史をもち世界的に有名です。絨毯工場(廠)は、観光客に解放しているので、工場まで行って申し込めば見学できます。市内から5キロ程で、白玉河の河畔にあります。4〜5人が半年ほどもかけて織り上げる、気が遠くなるような作業を見る事が出来ます
。(入場無料)

ボタンをクリックすると「西域南道(国道315号線)を行く」のビデオ映像をご覧頂けます。

ヨートカン(薬特干)遺趾ー漢代から宋代にかけて栄えたカンデン国の城跡と考えられています。ホータン市の西11km程の畑の中にあるのですが、現地には遺跡らしいものはなく、看板が建っているだけです。近くまで行くと、何処からともなく村人が集まってきて、遺跡のかけらを売りにきますから、ここが遺跡かなと分かります。集まって来た子供達が、遺跡が埋まっている場所に案内してくれると言うので、付いて行きました。小山を少し掘ると、陶器などの破片が出てきました
マリカワト(瑪利克瓦特)古城ーカンデン国の砦跡と考えられています。市から白玉河の西岸を南に25キロほど行った所にあります。白玉河は、一攫千金を狙って白玉をさがす人々で賑わっています
。手掘りで探す人からブルドーザーで川底を掘り起こす人まで、正に西部劇のゴールドラッシュの様です。私達も車を止めて、一攫千金をねらってみました。カンデン(簡単)には見つかるはずはありませんが、気分だけは味わえますよ。近くのお兄さん達が、玉を買わないかと声をかけて来るのもまた楽しです(本物はまずありませんよ!)。マリカワト古城の入口は、村の中にあります。ここで入場料とロバ車代を支払います。ロバ車に揺られて遺跡近くまで行く事になります。人懐こいウイグルのお嬢さんが御者です。子供も同乗してきました。砂漠の中に小石を敷いてつくられた道を揺られる事30分ほどで、城壁跡が残っている場所に着きます。周辺の地面には陶器片が散乱しています。(おばさんが偽物の玉を高値で売り込んでくるのにはウンザリしますが、チップと思って5元位で買ってあげれば良いでしょう)
<ホータンからヤルカンドへ>ホータンで2泊した私達は、西域南道をヤルカンド(莎車)へ向かいました
。ヤルカンドまでは約300キロの道程ですが、そのほとんどは砂嵐の中の走行となり「流砂の道」を実感しました(砂嵐の模様は、上枠左のビデオボタンからも見られます)。ヤルカンドが近づくにつれて砂嵐は治まり、視界も開け崑崙山脈が望めるようになってきました。前方に美しいポプラ並木が見え始めるとヤルカンドの街も間もなくです。
ヤルカンドの概要ータリム盆地の西南にあって、パミール高原の南面にあたる位置にあります。平均標高は1231mあります。漢代(紀元前200年から紀元後200年)に莎車国が起こり、以降、渠沙国、ヤルカンド・ハン国などが栄えた所です。シルクロードの時代、マルコボー口の東方見聞録にも、ヤルカン(yarkan)として登場しています。2003年現在の人口は64万人で中国の中では小さな町です。


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ヤルカンド市は、新市街と旧市街に分かれていますが見所は旧市街です。イスラム寺院が点在し、そこを行きかうロバの車や人々の姿は、数百年も前の世界にタイムスリップしたような錯覚に襲われます。この辺りでは、訪れる外国人の観光客も少ないのか、ビデオカメラを回していると、子供だけでなく大人も覘きに来る程でした
アルトゥンルク(阿勒屯書克)は、そんな旧市街の中にあります
。一つのイスラムモスク(寺院)と二つの陵墓からなっています。入口を入って左にあるのがアルトゥンルクモスクです。靴を脱ぎ帽子をとって入る神聖な場所です。第2代国王が建立したと伝えられています。その第2代国王の王妃であったアマニシャーハンの陵墓は、入口から見て正面に建っています。鮮やかなタイルに飾られ、目をみはる豪華さです。その奥には、ヤルカンド・ハン国の初代国王サイード・ハンの陵墓があります。アマニシャーハンの陵墓に入ると、専用のガイドさんがいて、中を案内してくれます
アズナミジティ・ミージー(阿孜納米基提米脂)は、アルトゥンルクから車で10分ほど行った
旧市街の細い路地のなかにあります。伝統的イスラム建築様式をもつ寺院です。ここでも私達を見かけた周りの子供達が、物珍しそうに集まって大騒ぎでした。敷地内には四合院様式と呼ばれる建物があり、中庭には樹齢580年のニワウルシ(中国名:臭椿→乾燥に強い木で、虫が付かないほど葉に臭いがあるのでこの名前が付いたとされます)の大木と古井戸が残っていました
<ヤルカンドからカシュガルへ>ヤルカンドの新市街で昼食
をとった私達は、再び西域南道を、カシュガルへ向かいました。カシュガルまでは約200キロの道程です。タクラマカン砂漠も西端に進むにつれて「流砂」の影響が少なくなり、空は青く澄み渡ってきます。ヤルカンドから130キロほど走った辺りで突然に湖が出現します。エンギサール(英吉沙)ダムです。崑崙山脈の恵みで満々と水を湛えています。長い砂漠の旅になれた目には、表現しがたいほど鮮やかで美しい景色でした。
カシュガル到着ーニヤを出発してから、流砂の西域南道を、西へ約800キロ以上。まだ、陽が高い、夕方のカシュガル着きました
。ニヤを出発してから、3日間の旅でした。
明日は、いよいよ、今回の旅行のクライマックス「パミール高原」です。4600mのスバシ峠を越えて、国境の町タシュクルガンへ向かいます。この続きは「パミール高原〜タシュクルガン」のページをご覧ください。

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[特記事項]

その他の見所ー和田博物館
特産品
白玉・絹・絨毯
名物・美味い物ーザクロ・緑豆麺
(麺の上に豆の煮込みがのっている。ラグ麺の具が豆になったような感じか。ヤルカンドのファーストフード店)


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.R.HORI & Y.FUNATSU
公開日: 2002.08.10 更新日2013.03.01